お気持ち表明のブログ

お気持ち表明

結婚は勢いとはよく言ったもんで

 

 

4月20日に入籍をしました。

 

急なことでびっくりです。

 

 

夫の人とは1年半ほど前に付き合うときに、

「結婚する?籍空いてるよ?」

と私から言っていたのですが

その年の年末に彼が彼パパと喧嘩して実家の家業を手伝うのをやめ、新しく仕事を始めたものの、激務すぎて夏にうつ症状でダウンして、

その後私は実習で忙しく、9月に国家試験の申し込みをしたので2月の試験が終わるまで氏名変更できないから

 

するとしたら3月以降か〜

でもアレだよな、たぶん彼は積極的には結婚準備とかしないんだろうな

 

なんて思ってて

 

試験が終わって結果の通知がくる3月までは結婚の話は一切していませんでした。

 

 

で、3月に入って無事に合格通知と資格登録申請書が送られてきたので

「資格登録に戸籍謄本が必要なんだけど、ついでに抄本も請求するからいつでも入籍できるよ」

という話をしました。

 

 

彼は「お〜さすが」くらいの反応だったので

「資格登録は名前とか変わってからにしようかな、変更手続き面倒だし」

とさらに圧をかけ

 

 

そうこうしているうちに世の中が大変な状況になってきて、彼の家業(仲直りして復帰してた)も今後どうなるかわからないし、早く仕事探さなきゃという気持ちと

もしどちらかが感染したり、別の病気や事故で入院したとしても、家族じゃないから会うことができない、なんてことになるのが心配で

 

「仕事を探すにあたって、そちら(彼は私の住所の隣県にいます)の住所が欲しいので、部屋を探しましょう」

 

というところからお願いしました。

それからすぐネットで探した物件の内覧に行き、翌週には申し込みをして

「じゃあ入籍は来週でいっか〜」

という感じで

その翌週に入籍をしました。

 

 

結婚はタイミング、そして勢いだよ

といろんな人が言っていた意味がわかりました。

 

勝手にやってくるんですね、タイミングって。

 

ある意味ではコロナ婚と言えるのかもしれない。

 

 

しかし、実感が無さすぎて

手続き関連は全部間違えて旧姓を書いてしまいます。

 

 

 

 

 

入籍してから4日後、まさかの車上荒らしにあってしまい、免許証や保険証などをごっそり盗られました。

 

いいこと続きだからそろそろ何かあるんじゃないかと思ってたけど

こんなことってあるんですね。

前厄だからかな?

 

 

でもそのあと仕事が決まったので

プラマイゼロってことにしましょう。

 

 

4月の感想は

「こんなことってあるんですね」

でした。おわり。

 

 

児童養護施設の記憶①

 

突然ですが、小学5年生くらいのときにキリスト教系教育法人の児童養護施設に短期間いました。

別に家庭に問題があった訳ではなく(全く無いとも言えないけど)、ただ母子家庭で、母と子の2人暮らしで、頼れる親戚も居ない状態で、母が手術することになったから、ほかに行くところが無かったから、という理由です。

 

この事はときたま、何かの拍子にふと思い出す程度で、自分の中で強烈な思い出だとか、人生が変わる体験だったとかは思っておらず、なんか特殊な体験したのかも?くらいのものなんですけど

せっかくだから覚えている限りのエピソードを書いていこうと思います。

 

 

①シスターに「可哀想に」と言われて嫌だったこと

②みんなで入るお風呂に入れなかったこと

③保育士?にイラつかれたこと

④夜這い未遂?に遭ったこと

⑤小さい男の子がセクハラじみた戯れ方をしてくるのを叩いたら、二度と近づいて来なくて悪いことをしたなと反省したこと

⑥小さい女の子が特定の保育士をママと呼ぶこと

⑦↑の保育士がお祭りに実の娘を連れてきて、⑥の女の子の心境を思うと切なかったこと

⑧夏休みだけど一時帰宅できない組のみんなで宮崎県のこどもの国に行ったこと

⑨持ち前のコミュ障で施設でも無事ぼっちになったが、1人だけ仲良くしてくれた子がいたこと

⑩男の先生が苦手だったこと

 

 

あれ、わりと覚えてる。

 

 

①シスターに「可哀想に」と言われて嫌だったこと

 

これは施設に入った初日の話。

キリスト教系の施設だったので朝も夜も食事の時もお祈りがあって、当然シスターも施設内をウロウロしていたのです。初めてシスターに会って話をしたとき、私の境遇を聞いて「可哀想に」と何度も言われたことで「えっ、私って可哀想な子だったの?」とびっくりしたのと、可哀想にって思われるの嫌だな、って思った記憶があります。「可哀想」という言葉へのネガティブな感情はわりと今も引きずっていて、最近では主に嫌味を言うときに使うなどしていますが、たぶんこれから福祉の仕事に就く上で重要になってくる考え方なのではないかと思います。

 

 

今ならわかる。「可哀想な人は、ずっと可哀想な顔をしていなければならない」と言われたような気がして嫌だったんだなって。

「可哀想な人に施しを与える」という考え方にアレルギーのようなものがあるのは明らかにこの記憶のせいです。

今後きっと障害受容とかその辺の考え方に関わってくる気がする。

 

 

 

キリスト教が嫌いなわけではないし、たまたま出会ったシスターがそういう人だっただけだと思うけど、あまりよくない記憶。

 

放置子だった

 

子供の頃、母が家に居ない時間が多かった。

 

未就学児だった頃は、朝母より先に家を出て、保育園に1人で登園していた。子供の足で徒歩10分ほどだった。

保育園にはいつも一番乗りで、大きい声でおはようございます!と言いながら門をくぐっていたので、保育園の隣のお家の人が「毎朝元気な挨拶が聞こえてくるね」と言っていたよ、と園長先生に言われたことがある。

今となっては、朝早くから叫んでうるさかったのかしら、と思ってしまうが、子供の頃は褒められた!と喜んでいた。

 

そして帰るのは一番最後だった。

さすがに1人で歩いて帰らせてはくれないので、お迎えは19時近く。それが延長保育だったのかは定かではないが、私ともう1人、ひとつ上の男の子だけが遅くまで残っていた。

 

余談だけど

その男の子、「のりおくん」のことは今でもよく覚えている。

 

毎日みんなが帰ってから2人だけで遊んでいたので、私のことを大好きだと毎日言ってくれていた。

月曜の朝、のりおくんが登園してきたら「会いたかったー!」と抱きつかれた。

「お父さんと川に遊びに行って綺麗な石を見つけてきたよ」と持ってきてくれた。ハート型の石を見つけたときも毎回くれるので、私の宝物入れは石だらけになった。

 

(なので、『おじゃる丸』に出てくるカズマくんを見ると少しキュンとしてしまう。)

 

家族旅行のお土産をどうしてもきつきつちゃんに買う!と言って聞かなかった、とのりおくんのお母さんに言われたこともあった。そのときのお土産はなんだったか忘れちゃったけど。

 

お迎え待ちの間、一部だけ電気がつけられた状態の薄暗い教室の中で、よく2人で教育テレビを見ていたのだけど、のりおくんはいつも私を自分の膝に座らせたがっていた。

 

あの時のりおくん、おっぱい触ってくるからわりと迷惑だったんだよな。

先生達はそれを知らなかったのであらまあウフフ、という感じだったし、私も誰かに言いつけたりはしなかったから、おそらくこれを覚えているのは私だけだろう。

 

 

のりおくんは卒園前にお父さんの転勤で引っ越してしまった。でも転園してから何度か保育園に電話してきて、きつきつちゃんと話したい!と言っていたらしい。

 

あんなにまっすぐ私を好きでいてくれた人は、のりおくん以来いないだろうなぁ。とたまに思う。

 

 

小学生になってからは、1〜3年生の時は学校が終わったら学童保育に行っていた。

もしかしたらこれは母子家庭あるあるなのかもしれないけど、高学年になってからは学童代が払えないからという理由で鍵っ子になった。

 

 

母は親兄弟と絶縁していたために、親戚付き合いもなく、本当に1人だった。

米の研ぎ方と炊飯器のスイッチだけは教えてもらったので、晩御飯は毎食納豆ご飯か梅干しだった。

家庭科の授業で火を使えるようになったら目玉焼きも追加できた。パスタも茹でられるようになった。

 

家事や炊事もそうだが、生活に役立つライフハック的なものも今に至るまで一切教えてもらったことがない。これは私の人生の中でかなり損していることだと思う。

お友達がママとクッキー作ったとか、タネから作って餃子パーティーしたとか、ミシンを使って何かしたとか、そんな話を聞いてもどんな感じなのか想像できないし、大学に入ってからママに教えてもらった家庭料理ノートなるものを友達に見せてもらってビックリした。

そうか、親が子に料理やら何やら教えるのって普通のことなんだ、うちは普通じゃなかったのか、って、そのとき初めて気がついた。

 

今では普通に料理もお菓子作りもするし、掃除はできないけどなんとか生活できる程度には家事を覚えたので、

今後出会えるかはわからないけれど、我が子と一緒に料理などをすることにはハンパない憧れがある。

また脱線してしまった。

 

私に家の鍵を持たせた母は、私より早く家を出るようになり、次に夜勤を始め、そのうちに彼氏ができて休日も家に居ないことが増えた。

これは中学2年で弟ができるまで続いた。

 

 

ここまでが前置き。ぶっちゃけ前置きの方が長い。

 

私は小学4年生頃から、いわゆる放置子だった。知らない人はググってまとめブログでも読むといい。

 

放置子だった過去は私のガチ黒歴史だ。

詳しく書くと奇声を発しながら線路に飛び込んでしまうと思うのでサラッと書くことにする。

 

 

家には誰もいないので、寂しくて外に遊びに行き、ときにはお友達(と一方的に思っている人)の家に入り浸って、よその家のお母さんに迷惑をかけていた。

ご飯食べていく?などと優しくしてくれたお母さんもいたし、早く帰りなさい、とかうちの子とは遊べません、と言われたこともあった。私を存在しないかのようにスルーするお母さんもいた。

 

お友達の家に遊びに行けなくなったら、今度は電話魔になった。当時は連絡網として同じクラスの子全員の電話番号表をもらっていたので、ひたすら誰かに電話をした。

あとNTTから配られる市内住民の電話帳みたいなのを読み漁り、知り合いの住所と電話番号を片っ端から押さえていた。

おそらく私のネトストスキルはここで培われたのだろう。

 

あとは道端や遊び場に落ちている湿ったエロ本を収集したり、閉校時間ギリギリまで図書室に籠ってたりもした。

 

こうして私は周囲から疎まれ、少しずつ孤立していったのだけど、ラッキーだったのは私が「人が迷惑そうにすること」にすごく敏感だったことだ。嫌そうにされたらすぐにやめて近づかなくなっていったので、だんだんと居場所は家だけになっていった。

(というか敏感だったわりにはいまだに人との距離感がわからないので普通に地雷踏んでるんだけど。なにこの人生。)

 

 

思えば鍵っ子になったときからずっと寂しい寂しいと思っていたんだよなぁ。

ある程度好きに暮らしている今はそんなこともないはずだけど、ふと当時の自分を思い出しては、心の中で子供の私を眺めている。

 

母は母の人生があるんだし、女手一つで私を生かすのに必死だったのだろう。

私と母の間に親子としての時間がなかったのは仕方のないことだと理解しているが、あるときから「プライドが高すぎて誰にも頼れなかった母から被害を受けた」と考えるようになったらなんとなく自分が楽になった。

母は誰にも頼らず生きてやる、と考えていたのだろうが、そのしわ寄せを食ったのが私なのだ。

小さい頃からずっと言われていた「誰の助けも借りずに生きられるようになれ」という言葉は、そういう生き方しかできなかった母からの呪縛だったのだ。

この呪縛には長いこと苦しめられた。

困ったら誰かに助けてもらえ、人には甘えなさい、を覚えた私は今、そこそこ幸せだ。

 

 

母に対しては、現在は特に思うところはない。

5年ほど前から精神を病み、入院も勧められているが拒否し続けているらしい。医者からは一生治らないと言われたようだ。

私が今さら恨みつらみなどという感情を持つ必要はない。彼女は十分苦しんでいるから。

 

 

子供の頃は、もっと愛されたかった。この一言に尽きる。

 

でもそれは昔の話。

 

いつか黒歴史すら笑って話せるようになればいいと思うけど、きっと何十年も先の話なんだろうなぁ。

恋とか愛とかとは違う気がするけどこの人と結婚してみようかなって思ってる

 

こんなタイトル婚約者に見られたら終わりかもしれないけど、私の現状はこんな感じ。

 

 

私はいわゆる男運のないタイプで、好きなタイプは「私より大事なものがあるゆえに私のことを構ってくれない人」だった。ちなみに過去形である。当たり前だが当時の恋愛は散々だった。ここでは割愛するけども。

 

20代後半に入ってから、「25過ぎたら追う恋は卒業しなさい。つまらなくてもちゃんと愛してくれる人を選びなさい」とバイト先のスナックのママに言われ、それもそうだな、と思って方向転換をはかった。

その頃付き合った人は今までの人と正反対の、とても尽くしてくれる人だった。そのかわりに非常に妬くタイプで、しかもいわゆる「試し行為」というのを頻繁にする人だった。

 

これは本当にキツかった。今思い出してもかなりキツい。

 

何もしていないのに浮気を疑われることに始まり、

別れよう、と言った翌日にやっぱり続ける、と言ってくる。

お前なんか嫌いだ、と言ってくるけど数時間後には好きだからうんぬんと言う。

一緒にどこかに行こうと計画している途中に「行かない」と言い出す(結局行く)。

 

 

だいたい月1くらいでそういうことがあるので、Twitterではしばらく「PMSの彼氏」とネタにしていた。私自身もPMSはあるけど、当時の彼氏のほうが酷いPMSだった。

それでも2年近く付き合ったと思う。

 

最初はまあまあと宥めていた試し行為にもだんだんウンザリし始めて、性欲も無くなってしまって、最終的には連絡すら取りたくなくなってしまった。

そこで相手も気がついたのだろう、「身を引きます」と言われ本当にサヨナラになった。引き止めなかったのであっさりした別れだった。

 

 

それから今の彼氏と付き合うまでの約半年間は、自由の身になった開放感でいっぱいだった。しばらく恋愛したくないとすら思った(というか今も思ってる)。

 

あとから聞いたら、彼もいろいろあって恋愛に消極的だったらしい。

お互いに「もう恋愛はしなくていい」と思っていたのに、何故か今一緒にいる。

 

 

実は付き合う前にちょっとあの、身体だけの、大人の、ごにょごにょした関係があった。

そのとき、まるで助けを求めるように必死に、しがみつくように抱きついてくる彼に、私はどうしようもなく母性を感じてしまったのだ。こうなるともうダメ。母性が出たらアウト。

私は絶対お前を幸せにしてやるマンになったのである。

 

 

それともうひとつ、元彼と決定的に違う点がある。彼と一緒に寝ると、薬なしでぐっすり寝れるのだ。元彼のときは眠剤を飲まないとダメだったのに、今は妙にぐっすり眠れる。波長が合うのかもしれない。この人でいいのかもしれない。

 

付き合おうか云々の前に求婚したらあっさりOKをもらったので婚約者と呼んでいるのだけど、事情があってまだ籍は入れられないでいる。そうこうしてるうちに半年が経ち、平成も終わってしまった。

一緒に暮らすのは来春あたりからだろうか。

 

 

裁判所から内容証明が届いたら

 

みんなどう?届いたことある?裁判所からの出頭要請。

 

数年前の話ですが

裁判所から「裁判しますので来てください、来なかったら負けます」というお手紙がきました。

 

理由はローン返済が遅れてしまって、一括返済を要求されたからです。

 

裁判の場所は東京簡易裁判所(たぶん)。東北在住の私には出頭は無理でした。

しかし、示談交渉?するならこの紙に月いくら返済しますよって書いて送ってね〜

というありがたい書類が入っていたので、ソッコー書きました。

で、それが受理されたので月3万ずつ、1年かけて返済を終えました。

 

 

まともな人ならできない経験だと思いますが

福祉職を選ぶことになって、まあいわゆる社会の底辺と呼ばれる人とみっちり関わることも今後おおいにあり得るので、

これは結果的に経験しておいて良かったのかもしれない、と思うことにしています。

 

ていうか今、私自身が底辺の人間だからね。

 

底辺の人間に援助されるのは良い気分ではないかもしれないけど、ちゃんとした環境で育ってお勉強もできて、ちゃんとした社会経験があって、大きい失敗も特にしたことがないまともな人よりかは幾分か話しやすいんじゃないでしょうか。

 

違ったらヤバいな。

 

デスカフェ

 

とあるお寺さんで、死についてのワークショップに参加してきた。

 

ワークショップの性質上詳細は書けないが、死に向かう疑似体験をする会だった。

そこでは、渡されたカードに書き出した自分の大切なものを握りつぶして「手放していく」という過程があった。

 

自分にとって大切なものを書いたカードを、死の直前に2つまで絞って、最後の最後に1枚を決める。

でも、その最後に残したものも最終的には手放して、静かに生を終える。

 

 

 

最後に残した大切なものはなんだったか、あとで1人ずつ発表していく形式だったのだけど

私が残したのは弟だった。

 

子供が2人以上いる参加者の方は「ひとつに決められない」と言って最後の選択ができないでいた。

最年長と思わしき男性は「家族5人から先へ絞れない」と早々にリタイアしたらしい。

 

歳を重ねるほどに、手放せないものが増えていくのはなんとなくわかる。

死が近づく年齢になるほどリアルさを帯びていくので、疑似体験だとしても考えるは辛いのだろう。

 

私が最後の2つに絞ったのは、弟と婚約者だった。

 

血縁だから、という安易な理由でなんとなく弟を残したつもりだったが、すべてのカードを手放して、目の前のテーブルに何もなくなって、最期の一呼吸を終えたら、「弟を選んで良かった」と思った。「何も未練はないなぁ」とすら感じた

 

もし婚約者を残していたら「まだ死にたくない」と思っただろう。

できるかわからないけど、まだ結婚してないし、彼との子を残さなければならないし、なんていう未練が残ってしまう気がした。

 

 

その後はお茶とおやつを頂きながら、「余命1年と宣告されたら何をしたい?」を考えて、近くの席の方それぞれのお話を聴いていった。

 

面白いなと思ったのが、女性は比較的「身の回りを片付けて人生を畳んでいく」ものが多くて、男性は「自分がいた痕跡を残したい」という願望が強かったこと。

 

男性は寂しがりやさんが多いらしい。

 

 

 

で、参加してから2日後の今日。問題発生。

 

一度死んだ私は、「死ぬのって案外怖くないかも」という思考になっている。

 

 

デスカフェに参加した動機について。

これから目指す資格、職業は死にたい願望がある人と関わることが多いのだけど、私個人には「死んではいけない」という強い気持ちがない。

死にたいと言う人に、死んではいけないと言うためには、死について知らなければ、と思っていた。

 

でも今はなぜか死の魅力に引っ張られている気がする。

 

 

 

 

さて、困りました。

実習前に大問題にぶち当たってしまいました。

 

行かないほうがよかったのかも。

 

母の日には一輪のカーネーションを

今週のお題「母の日」

 

 

中2までは、学校帰りに近所のお花屋さんで一輪300円のカーネーションを綺麗にラッピングしてもらって、あとはケーキとかエクレアとか、何か甘いものを買って

私より遅く帰ってくる母親を労おうと待っていた。

 

 

中3からそれをやめたのは、中2のときに母親が彼氏と遊びに出かけたまま3日間帰ってこなかったから。

当日遊びに行くとは聞いていたけど、まさか帰宅が3日目の夜だとは思わなかった。

 

 

1人で過ごす寂しさと、エクレアの賞味期限が切れてしまった悲しさと同時に、きっと母親は喜んでくれると期待していた自分を恥じた。

所詮男には勝てなかった。