デスカフェ
とあるお寺さんで、死についてのワークショップに参加してきた。
ワークショップの性質上詳細は書けないが、死に向かう疑似体験をする会だった。
そこでは、渡されたカードに書き出した自分の大切なものを握りつぶして「手放していく」という過程があった。
自分にとって大切なものを書いたカードを、死の直前に2つまで絞って、最後の最後に1枚を決める。
でも、その最後に残したものも最終的には手放して、静かに生を終える。
最後に残した大切なものはなんだったか、あとで1人ずつ発表していく形式だったのだけど
私が残したのは弟だった。
子供が2人以上いる参加者の方は「ひとつに決められない」と言って最後の選択ができないでいた。
最年長と思わしき男性は「家族5人から先へ絞れない」と早々にリタイアしたらしい。
歳を重ねるほどに、手放せないものが増えていくのはなんとなくわかる。
死が近づく年齢になるほどリアルさを帯びていくので、疑似体験だとしても考えるは辛いのだろう。
私が最後の2つに絞ったのは、弟と婚約者だった。
血縁だから、という安易な理由でなんとなく弟を残したつもりだったが、すべてのカードを手放して、目の前のテーブルに何もなくなって、最期の一呼吸を終えたら、「弟を選んで良かった」と思った。「何も未練はないなぁ」とすら感じた
もし婚約者を残していたら「まだ死にたくない」と思っただろう。
できるかわからないけど、まだ結婚してないし、彼との子を残さなければならないし、なんていう未練が残ってしまう気がした。
その後はお茶とおやつを頂きながら、「余命1年と宣告されたら何をしたい?」を考えて、近くの席の方それぞれのお話を聴いていった。
面白いなと思ったのが、女性は比較的「身の回りを片付けて人生を畳んでいく」ものが多くて、男性は「自分がいた痕跡を残したい」という願望が強かったこと。
男性は寂しがりやさんが多いらしい。
で、参加してから2日後の今日。問題発生。
一度死んだ私は、「死ぬのって案外怖くないかも」という思考になっている。
デスカフェに参加した動機について。
これから目指す資格、職業は死にたい願望がある人と関わることが多いのだけど、私個人には「死んではいけない」という強い気持ちがない。
死にたいと言う人に、死んではいけないと言うためには、死について知らなければ、と思っていた。
でも今はなぜか死の魅力に引っ張られている気がする。
さて、困りました。
実習前に大問題にぶち当たってしまいました。
行かないほうがよかったのかも。