お気持ち表明のブログ

お気持ち表明

放置子だった

 

子供の頃、母が家に居ない時間が多かった。

 

未就学児だった頃は、朝母より先に家を出て、保育園に1人で登園していた。子供の足で徒歩10分ほどだった。

保育園にはいつも一番乗りで、大きい声でおはようございます!と言いながら門をくぐっていたので、保育園の隣のお家の人が「毎朝元気な挨拶が聞こえてくるね」と言っていたよ、と園長先生に言われたことがある。

今となっては、朝早くから叫んでうるさかったのかしら、と思ってしまうが、子供の頃は褒められた!と喜んでいた。

 

そして帰るのは一番最後だった。

さすがに1人で歩いて帰らせてはくれないので、お迎えは19時近く。それが延長保育だったのかは定かではないが、私ともう1人、ひとつ上の男の子だけが遅くまで残っていた。

 

余談だけど

その男の子、「のりおくん」のことは今でもよく覚えている。

 

毎日みんなが帰ってから2人だけで遊んでいたので、私のことを大好きだと毎日言ってくれていた。

月曜の朝、のりおくんが登園してきたら「会いたかったー!」と抱きつかれた。

「お父さんと川に遊びに行って綺麗な石を見つけてきたよ」と持ってきてくれた。ハート型の石を見つけたときも毎回くれるので、私の宝物入れは石だらけになった。

 

(なので、『おじゃる丸』に出てくるカズマくんを見ると少しキュンとしてしまう。)

 

家族旅行のお土産をどうしてもきつきつちゃんに買う!と言って聞かなかった、とのりおくんのお母さんに言われたこともあった。そのときのお土産はなんだったか忘れちゃったけど。

 

お迎え待ちの間、一部だけ電気がつけられた状態の薄暗い教室の中で、よく2人で教育テレビを見ていたのだけど、のりおくんはいつも私を自分の膝に座らせたがっていた。

 

あの時のりおくん、おっぱい触ってくるからわりと迷惑だったんだよな。

先生達はそれを知らなかったのであらまあウフフ、という感じだったし、私も誰かに言いつけたりはしなかったから、おそらくこれを覚えているのは私だけだろう。

 

 

のりおくんは卒園前にお父さんの転勤で引っ越してしまった。でも転園してから何度か保育園に電話してきて、きつきつちゃんと話したい!と言っていたらしい。

 

あんなにまっすぐ私を好きでいてくれた人は、のりおくん以来いないだろうなぁ。とたまに思う。

 

 

小学生になってからは、1〜3年生の時は学校が終わったら学童保育に行っていた。

もしかしたらこれは母子家庭あるあるなのかもしれないけど、高学年になってからは学童代が払えないからという理由で鍵っ子になった。

 

 

母は親兄弟と絶縁していたために、親戚付き合いもなく、本当に1人だった。

米の研ぎ方と炊飯器のスイッチだけは教えてもらったので、晩御飯は毎食納豆ご飯か梅干しだった。

家庭科の授業で火を使えるようになったら目玉焼きも追加できた。パスタも茹でられるようになった。

 

家事や炊事もそうだが、生活に役立つライフハック的なものも今に至るまで一切教えてもらったことがない。これは私の人生の中でかなり損していることだと思う。

お友達がママとクッキー作ったとか、タネから作って餃子パーティーしたとか、ミシンを使って何かしたとか、そんな話を聞いてもどんな感じなのか想像できないし、大学に入ってからママに教えてもらった家庭料理ノートなるものを友達に見せてもらってビックリした。

そうか、親が子に料理やら何やら教えるのって普通のことなんだ、うちは普通じゃなかったのか、って、そのとき初めて気がついた。

 

今では普通に料理もお菓子作りもするし、掃除はできないけどなんとか生活できる程度には家事を覚えたので、

今後出会えるかはわからないけれど、我が子と一緒に料理などをすることにはハンパない憧れがある。

また脱線してしまった。

 

私に家の鍵を持たせた母は、私より早く家を出るようになり、次に夜勤を始め、そのうちに彼氏ができて休日も家に居ないことが増えた。

これは中学2年で弟ができるまで続いた。

 

 

ここまでが前置き。ぶっちゃけ前置きの方が長い。

 

私は小学4年生頃から、いわゆる放置子だった。知らない人はググってまとめブログでも読むといい。

 

放置子だった過去は私のガチ黒歴史だ。

詳しく書くと奇声を発しながら線路に飛び込んでしまうと思うのでサラッと書くことにする。

 

 

家には誰もいないので、寂しくて外に遊びに行き、ときにはお友達(と一方的に思っている人)の家に入り浸って、よその家のお母さんに迷惑をかけていた。

ご飯食べていく?などと優しくしてくれたお母さんもいたし、早く帰りなさい、とかうちの子とは遊べません、と言われたこともあった。私を存在しないかのようにスルーするお母さんもいた。

 

お友達の家に遊びに行けなくなったら、今度は電話魔になった。当時は連絡網として同じクラスの子全員の電話番号表をもらっていたので、ひたすら誰かに電話をした。

あとNTTから配られる市内住民の電話帳みたいなのを読み漁り、知り合いの住所と電話番号を片っ端から押さえていた。

おそらく私のネトストスキルはここで培われたのだろう。

 

あとは道端や遊び場に落ちている湿ったエロ本を収集したり、閉校時間ギリギリまで図書室に籠ってたりもした。

 

こうして私は周囲から疎まれ、少しずつ孤立していったのだけど、ラッキーだったのは私が「人が迷惑そうにすること」にすごく敏感だったことだ。嫌そうにされたらすぐにやめて近づかなくなっていったので、だんだんと居場所は家だけになっていった。

(というか敏感だったわりにはいまだに人との距離感がわからないので普通に地雷踏んでるんだけど。なにこの人生。)

 

 

思えば鍵っ子になったときからずっと寂しい寂しいと思っていたんだよなぁ。

ある程度好きに暮らしている今はそんなこともないはずだけど、ふと当時の自分を思い出しては、心の中で子供の私を眺めている。

 

母は母の人生があるんだし、女手一つで私を生かすのに必死だったのだろう。

私と母の間に親子としての時間がなかったのは仕方のないことだと理解しているが、あるときから「プライドが高すぎて誰にも頼れなかった母から被害を受けた」と考えるようになったらなんとなく自分が楽になった。

母は誰にも頼らず生きてやる、と考えていたのだろうが、そのしわ寄せを食ったのが私なのだ。

小さい頃からずっと言われていた「誰の助けも借りずに生きられるようになれ」という言葉は、そういう生き方しかできなかった母からの呪縛だったのだ。

この呪縛には長いこと苦しめられた。

困ったら誰かに助けてもらえ、人には甘えなさい、を覚えた私は今、そこそこ幸せだ。

 

 

母に対しては、現在は特に思うところはない。

5年ほど前から精神を病み、入院も勧められているが拒否し続けているらしい。医者からは一生治らないと言われたようだ。

私が今さら恨みつらみなどという感情を持つ必要はない。彼女は十分苦しんでいるから。

 

 

子供の頃は、もっと愛されたかった。この一言に尽きる。

 

でもそれは昔の話。

 

いつか黒歴史すら笑って話せるようになればいいと思うけど、きっと何十年も先の話なんだろうなぁ。